どうして「悪」は「陳腐」なのか? ナチ・プロたちの発想こそ全体主義的である理由【仲正昌樹】
この手の“批判”はよく聞くが、完全に的外れである。アーレントの言っている「陳腐さ」というのは、反ユダヤ主義度がさほど高くない、という意味ではない。『全体主義の起原』(一九五一)の記述全体を読めば分かるように、アーレントは、一九世紀初頭の国民国家の形成期以降、ドイツ語圏だけでなく、ヨーロッパ全体で反ユダヤ主義的な思考が様々な形で蔓延しており、それが帝国主義や大衆社会化など他の要素と相まって、ドイツやソ連で全体主義体制が成立したという見方を示している。アーレントにとって、反ユダヤ主義は、ある意味、汎ヨーロッパ現象であり、アイヒマンの振る舞いが、反ユダヤ主義と深く関係しているのは、いわずもがなの大前提である。
しかし、アイヒマンが個人的に、確信犯的にユダヤ人に嫌悪感を抱いていたとしても、それほどでなかったとしても、それは彼の行為が「陳腐」であるかどうかとは関係ない。アイヒマンの「陳腐さ」とは、普通の役人が事務をこなすように、ホロコースト関係の業務もこなしたということだ。官僚機構の歯車の一つとしての彼の仕事ぶりを見て、そこに“いかにもナチスらしい野蛮さ”とか、“悪魔的な刻印”のようなものを感知することはできない、ということだ。
アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』の第十五章で、イスラエルの第二審判決を批判的に参照している。
原判決とはいちじるしい対照をなして、ここでは被告が〈上からの命令〉を全然受けていなかったことが認められていた。彼自身が上級者なのであって、ユダヤ人問題に関しては彼がすべての命令を発した。(…)そして、アイヒマンという人間が存在しなかったとしてもユダヤ人の運命はもっとましにならなかったろうという弁護側の明白な論理にこたえて、今度の判事たちは「被告とその共犯たちの狂信的な熱意と満たされることのない血の渇きがなかったならば、最終的解決の計画も皮を剥いだり肉をさいなんだりする凶悪な形を取らなかっただろう」と言明している。(大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン』みすず書房、一九二頁)
この判決がかなり不自然であり、親衛隊の中佐に過ぎなかったアイヒマンにあまりに多くを負わせているのは明らかだろう。そうでも言わないと、アルゼンチンに対する主権侵害や単独での法廷を正当化できないと思ったのかもしれないが。
これは、ドイツの歴史学者たちが指摘しているし、ごく普通に考えれば分かることだが、アイヒマンにしろ、他のホロコーストに関連した他の役人にしろ、“仕事”を片付ける際に、いちいち「狂信的な熱意と満たされることのない血の渇き the fanatical zeal and the unquenchable blood thirst」に囚われて、一番残虐な殺し方を夢想して感情的に高ぶっていたら、効率的に多くの人を輸送・収容し、速やかに虐殺を実行することなどできなかったろうし、アイヒマン自身が、現場で指揮を取っていたわけではない。彼の内面が「狂信的な熱意と満たされることのない血の渇き」で一杯だったとしても、それはホロコースト全体の中で彼が果たした役割とは関係ない。